世直し運動は、たとえ地理的には地方や地域で行なわれているにすぎないとしても、それが自覚的であれ無自覚的であれ資本制経済の原理と仕組みに楯突く質をもつものであるなら・・・
それは、ナショナルな意義を有するナショナル運動であるといいえます。
一方、資本主義ベター論に立つ運動は、たとえ地理的には全国規模のひろがりをもっていようと、事実上、資本制経済の原理と仕組みのヴァリエーションをつくり出そうとするにすぎません。
運動の質という点からいえばローカル運動であるにとどまります。
そのような意味でのナショナル運動とローカル運動の違いは端的に「連帯」の質の違いとなって現われます。
協闘としての連帯か、「ゆるやかな」連帯か・・・。
この違いは、自覚的にあるいは無自覚的に、深層レベルでの変革をめざすか表層レベルでの改善をめざすかという違いに照応します。
もっとも、ナショナル運動としての質をもつ連帯とて、運動が持続するかぎりで成立するものですから、高揚しては退潮するという断続性を免れません。
表層・深層という二重の存在様式を克服していわば一重の存在様式をもつのは、何世代も先のことでしょう。
それまでの年月は、協働的連帯の試行期間と経験の蓄積過程としての意義をもつことになります。
「制御」の思想は、「必然性」という言葉を追放するところから始まります。
「法則」重視の思考も同断ですが、政治ずれした人たちの、訳知り顔した「力関係」論もこの際さまたげとなります。
「力関係からして、かくかくしかじかの結果になるのは必然的」云々・・・。
ですが、「結局、日本も非常に合理的な政策立案をしなくてはならない」という、あたりまえの結論になります。